リトルキス






幼少期の二人の話。







「あーにきっ!おはよー!」

「ジョルジュ……まだ7時だってのに……」


朝の到来を告げるのは聞きなれた高い声。穏やかな眠りを妨げられた男の子は瞼をガシガシと擦りながら窓に近づいた。誘うように微風に揺れるカーテンをすり抜けた朝の光がアルマンドの髪を明るく染める。

見下ろした先、近所迷惑な声で自分を呼ぶのは、隣の家に住む幼馴染。
両手を大きく振って、眠りから完全に覚醒しきっていないアルマンドに呼びかける。


「あにきー!?」

「うるせーよ!まだ時間じゃないだろっ」

「今日あにき日直だよ〜!」

「…………今行く」


すっかり忘れていた当番を思い出させられたアルマンドは、苦い顔をしてサーッとカーテンを閉める。
タンスから洋服を引っ張り出し、大急ぎで着替えをして階段を駆け下りる。朝食のパンを引っつかみ、牛乳を一気飲み。
体操着を手渡し、忘れ物はないか、宿題は持ったか、などと聞いてくる母親から小走りで逃げ出し、アルマンドは「いってきます!」と声を張った。


心地良い日差しが降り注ぐ中、ジョルジュはじっとしていられないようにくるくると同じ場所を回っていた。
玄関から出てきたアルマンドの姿を認めると、ジョルジュは笑顔を咲かせる。


「あにき、日直って忘れてたでしょ〜」

「忘れてねーしっ。大体それにしたって早すぎだよジョルジュ。いつも寝坊してくるのはお前なのに」

「ふふふ〜」


ねぼすけのジョルジュが今日に限っては、朝っぱらから満面の笑み。ただでさえ忘れっぽいジョルジュが、アルマンドが日直だということまで覚えているなんて、いつもなら考えられない。
並んで歩き始めたものの、ジョルジュはそわそわとアルマンドの顔を覗き込んでくる。何か言いたいことがあるとき、ジョルジュはいつもこのようにデモンストレーションをする。
それを暗に理解しているアルマンドは親切に用件を聞いてやる。


「何だよ?」

「あのねぇ……」

「早く言えよ」

「朝起きたらね、おはようのキスをするんだよ!」


そう言ってジョルジュは得意げに笑みをつくった。自分のほうが「大人のジジョウ」に精通していることが誇らしいようだ。


「……は?」

「あにき、キスしたことないんだろ〜」

「は!?あるし!」

「えっ!?ほんとに!?」


もちろん、まだ10にも満たないアルマンドはキスなんてしたこともない。過保護な母親からたまに頬に口付けられることはあっても、きっとジョルジュが得意げに話す「キス」とはそのことではないだろう。
だが、その言葉をジョルジュは信じたようで、ショックを受けたような顔をしていた。


「そんなん、普通だよ。お前したことないの?」

「……う。で、でも、お母さんがお父さんにキスしてるのは見たもん!」


どうやらそれでジョルジュは「キス」というものを知ったようだ。
「それに、それに」と言葉を続けようとするが何も思いつかないらしく、ジョルジュは眉を垂れて唇を尖らせた。

少しの沈黙の後、アルマンドが口を開く。


「じゃぁ、してみる?」

「えっ?キ、キス?」

「うん」


こともなげにそう言うアルマンドとは対照的に、ジョルジュは足元に視線を落とし、照れているのか「あー」とか「うー」とか、意味不明な言葉を発し、頭をかいた。

ジョルジュの挙動不審な表情に、一歩近づいたアルマンドの影が重なる。ジョルジュは反射的に気をつけの姿勢をとる。
続いて響く、ちゅっという小さな音。


「…………」

「…………」

「何だよ」

「なんか……普通だった」


ぽかんとした表情のジョルジュが呟いた言葉に、アルマンドの幼心は少なからずショックを受けた。がっくりと肩を落としたいところだが、「兄貴」という立場上、そういうわけにもいかない。
「そんなもんだよ、キスなんて」と偉そうに鼻を鳴らしてぷいっと前を向く。感情を隠すことはまだ難しい年頃だった。

自分の唇に何か変化がないか確かめているかのように、たどたどしく唇に触れていたジョルジュが首をかしげて唸る。その瞳は好奇心にきらきらと輝いている。


「でも……おもしろいかも」

「え?」

「あにきっ!もっかいしよ!なんかよくわかんなかった!」

「はぁ!?もうだめ!」

「なんで!?」

「うるせえよっ。もう行くぞ!」


そう言ってアルマンドは駆け出した。ランドセルの中身が揺れる音に続いて、ジョルジュが掛けてくる軽い足音が聞こえる。
長く、短い学校までの道のりを二つの影が過ぎていった。











「ジョルジュ、お前まーた遅刻か!どうせ昨日も夜更かししてたんだろ、ずっと電気ついてたぞ。お前一人ならいいけどな、毎朝こうして俺が待ってやってんだからいい加減ちゃんと起きろよな」

「あ〜兄貴……ごめん。もう一回言ってくれない?何もわかんなかった」

「……てめぇっ!!」


家から出て来たはいいものの、ほとんど目を瞑っている状態のジョルジュに果たしてアルマンドの姿は見えているのだろうか。だがこの状態の彼に何を言っても無駄だとはわかっていたので、アルマンドは先ほどの台詞を繰り返す代わりに大きくため息を吐いた。


「……昔はかわいかったのになぁ」

「え?何〜?俺がかわいいって?やだなぁ〜兄貴。照れるじゃんか」


都合のいいところは聞こえるらしい。全く調子のいい奴だ、と思いながら昔のことを思い出す。


「おはよーのキスとか、ねだってきてたのに」

「……キス?あぁ、したねー。うんうん」

「何だ、覚えてんの?」

「うん。覚えてるよ。兄貴のへたくそなキス」

「なんだと!?」

「わっ嘘だよ、嘘!」


襟元をつかんで威嚇すればジョルジュは慌てて手を振って否定の意を示す。
解放されて胸を押さえると大げさに息をつく。


「あ〜もう、目が覚めちゃったよ」

「よかったじゃねーか」


我ながら大人気ないと思いながらもざまあみろと言外に訴える。するとジョルジュは頬を膨らます。


――人といるときにだるそうな態度とりやがって。大体、へたくそなキスとは心外だ!下手もなにも、あの時はほんの触れる程度のキスだったじゃないか!


大きく伸びをして眠気とおさらばしようとしているジョルジュをちらと見れば、唇に触れながら「もっかいしよう」と言ってきた幼いジョルジュが重なった。

なぜあの時、拒否したんだろう?


「……何なら、もう一回してみる?」

「兄貴と!?いーやーだーよー!兄貴の変態!」

「うぜっ!冗談に決まってんだろ、誰が変態だ!!」


もともとプライドの高い性格の所為で、素直になれないことが多い。特に、この幼馴染の前では。

――これでは、あの時と同じだな。

自分のキスを「普通だった」と形容されて、傷ついたのだ。それで怖くなってしまった。
だが、これから先も自分は変わりそうにないし、きっと変わらない方がいいんだと思う。


「……まぁ、俺が寝ぼけてたら、キスしてもいいよ。そしたら起きてあげる」

「いいよって、お前何様?」

「え?まーいいじゃん。おはよーのキスでお姫様は目が覚めるって言うじゃん」

「なんかごっちゃになってないか?」


あの頃よりも少し遅い時間。
目覚めたばかりの太陽が照りつける暑い夏の日。
少しばかり悪知恵のついた、背の伸びた二人。



何も変わらなくていい。何も望まない。この世界に、二人がいれば。